憎まれているはずの夫に離縁状を突きつけたら、なぜか囲われました
こたん2号
R18・18歳未満閲覧禁止
第一章
結婚して一年、ユエル・クライゼンは夫に離縁状を差し出した。
朝の光はまだ薄く、執務室の高い窓から差し込む白さの中で、銀の封蝋を押した書面だけがひどく冴えて見えた。紙の端から指を離した瞬間、自分の手が僅かに冷えていることに気づいたが、ユエルは握り込もうとはしなかった。
アルヴィス・クライゼンは、封を切る前から中身を察していたのだろう。
黒髪の影に沈む金の瞳が、ほんの一瞬だけ紙面をなぞった。
何かしら反応はあるかもしれない――そう思っていたが、夫は何も言わなかった。沈黙をひとつ置き、次の瞬間には離縁状を二つに裂いていた。
破れた紙片が机の上に落ちる。
ユエルはしばらく、それを見ていた。
銀の封蝋はまだ半分だけ紙に残っていて、丁寧に整えた署名の端が、裂け目に沿って歪んでいる。
何が起きたのか、すぐには理解できなかった。
数拍遅れて、それが自分の差し出した離縁状だったのだと、ようやく思い出す。
ユエルは瞬いた。
「……なぜ、破るのですか」
零れた声は思ったより静かだった。自分のものというより、少し離れた場所で誰かが問いかけているように聞こえる。
二人は完璧な政略結婚だった。
家のために結ばれ、家のために並び、家のために微笑む。
夜会では誰より釣り合いの取れた夫婦として視線を集め、祝辞を受けるたび、ユエルは銀髪の下で頬をやわらげ、隣に立つ夫の袖へ触れないぎりぎりの距離を保ってきた。
――それ以上を、アルヴィスは許さなかったから。
夫は自分を憎んでいる。
ユエルはそう理解していたし、そう思うだけの理由もあった。
アルヴィスにはかつて、幼い頃から将来を誓った婚約者がいた。エミール・ベルフォード。穏やかな微笑みを持つ、美しいΩ。
その人を追い落とし、空いた席へユエルを座らせたのはセルヴェイン家だと言われている。いや、実際にそうなのだろう。事実、今アルヴィスの隣に立っているのはユエルなのだから。
だから憎まれるのは当然だった。
たとえその席を、ユエル自身が望んだことなど一度もなかったとしても。
「……あなたは、僕を嫌っているでしょう」
「ああ、そうだな。憎んでいる」
迷いのない返答だった。
慣れているはずの言葉でも、心に刺さらないわけではない。
胸の内側を薄く削られるような感覚を、ユエルは呼吸と一緒に押し込め、笑った。傷ついていないふりをするために覚えた、綺麗なだけの笑みだった。
「でしたら、なおさら署名をなさるべきでは?」
「……離縁はしない」
「おかしいでしょう……そんなの。嫌いなら別れましょうと言っています。どうしてこんな簡単なことをご理解いただけないのですか?」
アルヴィスが立ち上がった。
椅子の脚が床を擦る低い音がして、机を挟んでいるはずの距離が一気に縮まったように感じる。
ユエルより頭ひとつ以上高い身体に見下ろされると、それだけで息が詰まりそうになる。黒髪の下から向けられる金の瞳には怒りがあった。けれど、それだけではない何かが、底の方で暗く揺れている。
憎しみなら、慣れている。
今のアルヴィスは、それとは違った。
だからユエルは、ほんの少しだけ怖くなった。
「……誰の入れ知恵だ?」
「入れ知恵? これは僕の意思です」
「お前にそんなものがあるのか、セルヴェイン」
その名で呼ばれるたび、ユエルは思い知らされる。
婚姻によって、書類上の名はユエル・クライゼンになった。けれど夫は一度も、その名でユエルを呼んだことがない。
ユエルでも、妻でも、伴侶でもなく──セルヴェイン。
「……あなたが知らないだけで」
散った紙片を見下ろす。
破られてしまえば、ただの紙だった。
あれほど時間をかけて用意した文字も、署名も、震えないよう何度も練習した筆跡も、今は机の上で白く乱れている。
「ありましたよ。僕にだって」
アルヴィスの眉が僅かに動いた。
誰もそれを動揺とは呼ばないだろう。
けれど一年そばにいて、憎まれるためだけに彼の表情を覚えてきたユエルは、その一瞬を見逃さなかった。
「エミール様のところへお戻りになればよろしいではありませんか」
その名を出した途端、アルヴィスの目つきが変わった。
部屋の温度が下がったように感じたのは、おそらく気のせいではない。
アルヴィスが机を回り込む。
逃げるべきだと思ったのに、ユエルの足は動かなかった。
近づくαの香りに、身体が先に反応する。心はとうに疲れ果てているのに、Ωの身体だけはまだ、この男を夫として覚えていた。
最悪なことに、最高の相性。
その事実が何より嫌だった。
顎を掴まれ、無理やり上を向かされる。
「お前が、あいつの名を口にするな」
「……なら、僕にも触れないでください」
「何?」
「そんなに大切なら、最後まで大切になさればいいでしょう」
自分でも嫌な言い方だと思った。
けれど止められなかった。
「僕はあの方の場所を奪ったΩなんでしょう? 憎くて仕方がないのでしょう? それなのに、夜になれば平気で僕を抱く」
アルヴィスの顔から、すっと表情が消えた。
「それで翌朝になれば、またセルヴェインと呼ぶ」
喉が痛んだ。
「……安っぽい純愛ですね」
静寂が落ちる。
言い過ぎたとは思わなかった。これまで飲み込んできた言葉の量を思えば、たったこれだけで済ませた自分を褒めてもいいくらいだった。
アルヴィスの指は、ユエルの顎から離れない。
逃がすつもりがないと伝えるには十分で、傷を残すほどではない。その加減が、かえって惨めだった。
「離縁などしない」
声が低くなる。
「お前一人だけが、楽になれると思うな」
一拍置いて、さらに暗い声が続いた。
「……罪人のくせに」
その言葉は鋭く刺さるのではなく、鈍く、深いところへ沈んでいった。
自分が何かしたわけではない。
けれどエミールの立場を奪ったのかと問われれば、否とは言えない。
少なくとも、ユエルはそう思っていた。
「……そうですね」
静かに答える。
「けれど、その代償として好きでもないあなたに抱かれ続けたのです。もう、いいでしょう……?」
アルヴィスが顎を掴む力が、僅かに緩んだ。
「この関係に何の意味があるのですか。……何もない。何も、です」
顎を掴む手に、そっと指を添える。
「セルヴェイン」
「その名で呼ぶのも、今日までにしてください」
ようやく息を吸うと、喉の奥に残っていた熱が、涙にもならず沈んでいった。
「僕は、あなたの妻でいることに疲れました」
口にして初めて、ユエルは自分が本当に疲れていたのだと思い知った。
次の瞬間、身体が傾いた。
肩を強く押され、背中が床に落ちる。厚い絨毯が衝撃を吸ったはずなのに、肺の奥から息だけが短く漏れた。
理解が追いつくより先に、アルヴィスの身体が覆いかぶさってくる。
「疲れた、だと」
耳元に落ちた声は低い。
「俺の前でエミールの名を出して、俺を煽って、今さら逃げるのか」
「逃げるのではありません……終わりにしたいだけです」
手首を掴まれる。
ユエルは笑った。
笑わなければ、床に押し倒された惨めさも、夫の香りに反応してしまう身体の愚かさも、すべて露わになってしまう。
「……誘ったのはお前だろう? その香りで」
「……僕が?」
思わず瞬いた。
傷つかなかったわけではない。
けれど驚きの方が先に来た。
そうか。この人は、まだ自分を責める言葉を持っているのか。
「僕は一度も頼んだことなんてない。あなたに抱かれたいなんて、思ったことも、ない……!」
アルヴィスの手が止まった。
ほんの一瞬だった。
その一瞬を、ユエルは許さなかった。
「誰よりもあの方を裏切っているのはあなたでしょう? 旦那様。僕の身体で、ずいぶん満足していらっしゃるくせに。あなたはこの身体が……お好きですよね?」
棘を含んで口にした言葉はアルヴィスだけでなく、ユエル自身も傷つけた。
自分をそこまで落とさなければ相手を刺せないことが、たまらなく嫌だった。
それでも今さら、綺麗な言葉で終われる関係でもない。
アルヴィスの金の瞳が暗く沈む。
「……浅ましいΩ風情が」
言った直後、彼自身が息を呑んだ。
ユエルはそれを見た。
取り返しのつかない言葉を投げた人間の顔だった。
アルヴィスの指から僅かに力が抜ける。けれど、離れはしない。
その半端さが、たまらなく彼らしかった。
「ええ」
ユエルは静かに答えた。
「そうですね。……でも、その浅ましいΩの上で腰を振るのはどなたですか?」
今度こそ、アルヴィスは何も言わなかった。
沈黙のまま、唇を塞がれる。
噛みつくような口づけだった。優しさはなく、確かめるような遅さもない。奪うためだけの熱を押しつけられ、ユエルは息を継ぐ隙をなくした。
唇が離れたとき、アルヴィスが低く言う。
「……泣いて許しを請えば可愛げがあるものを」
苛つきにも、子どもの駄々にも聞こえた。
ユエルは目を細めた。
「僕が泣けば、あなたは満足ですか。旦那様」
胸のつかえが、そのまま言葉になって出た。
「……黙れ」
「黙らせたいなら、いつものように――っ、ん……」
言い終える前に、また口を塞がれた。
そこから先、ユエルは何も言わなかった。
言葉を失ったのではない。
もう、差し出せる言葉がなかった。
名前を呼ばれることはなかった。妻とも、伴侶とも呼ばれない。ただ息の合間に落ちる短い命令と、飲み込まれた罵声と、どうしようもなく熱を持った沈黙だけが、二人の間に積もっていった。
やがてアルヴィスを内側に受け入れた頃には、ユエルの呼吸はもう大きく乱れ、堪えきれない声まで漏れていた。
奥を突かれるたび、逃れようと腰が引ける。
けれどアルヴィスの腕はそれを許さず、強く引き戻した。
「ひっ、いや、あ、あっ……!」
背が大きく反り、指先が絨毯の毛を掴む。
何度も抱かれるうちに覚え込まされた快感が、身体の奥から駆け上がってくる。
心ではこれほど遠くまで離れようとしているのに、身体だけが、この男の手も、熱も、呼吸も忘れていない。
「拒んでいるわりに、随分と素直な身体だな」
低く落とされた声には、笑いに似た響きがあった。
嘲りだとわかっていても、言い返す言葉が出てこない。
事実だったからだ。
「……っ、うるさ……」
さらに深く揺さぶられ、声が崩れる。
「はっ……俺に抱かれて感じていることを、認めたくないだけだろう」
口惜しさに唇を強く噛んだ。
睨み返したかった。
けれど目の端に涙が滲むのを感じ、ユエルはそれを隠すように顔を背け、瞼を閉じた。
その途端、顎を掴まれる。
逃げるように逸らした顔を、正面へ戻された。
「……目を開けろ」
なぜ、と訊く余裕はなかった。
再び深く抱き込まれ、喉から震えた声が漏れる。薄く瞼を開けば、ひどく近いところに金の瞳があった。
アルヴィスが、ユエルを見ている。
いつもの冷たい目とは違っていた。
噛みしめた唇を。
涙の滲んだ目元を。
乱れた呼吸に震える身体を。
逃れようとして力の入った肩を。
嘲るでも、嗤うでもなく、何かを確かめるように、その視線はひどく執拗にユエルを追っている。
――どうしてそんな目で見るのだろう。
ほんの一瞬、そう思った。
胸の奥で、とうに諦めたはずの何かが、愚かにも息を吹き返しかける。
アルヴィスの手が、ユエルの頬へ伸びた。
触れる寸前で止まる。
アルヴィスは眉を寄せた。何かを噛み殺すように息を飲み、ほんの僅かにユエルから目を逸らす。
「……エミール」
ユエルは目を見開いた。
胸の奥で動きかけたものが、音もなく潰れた。
ああ。
そういうことか。
自分を見ていたのではない。
この男が見ているのは、最初からずっと別のΩなのだ。
声は出なかった。
代わりに、頬を熱いものが伝った。
身体はまだ熱を持ったまま、呼吸も乱れている。そのどうしようもなく生々しい感覚だけが残っていることが、ひどく惨めだった。
悲しいから零れたのか、それとも過ぎた快楽のせいなのか、自分でもわからない。
ただ涙は止まらず、声もないまま視界を滲ませていった。
愛していないことくらい、知っている。
優しくなんかしないことも、番にする気がないことも。
それでも、抱かれているあいだくらいは、自分を見ているのだと。
どこかで、そう思っていたらしい。その愚かさが、いちばん痛かった。
終わったあと、部屋はひどく静かで、ユエルもしばらく動けずにいた。
身体の重さより、心の方が先に床へ沈んでしまったようで、指先ひとつ持ち上げるにも時間がかかった。
アルヴィスは何かを言いかけたようだった。
だが、結局何も口にはしない。
代わりに、その手がユエルの首筋へ伸びた。
そこは番の痕を刻む場所だった。
何度も触れられ、何度も熱を残され、それでも一度も噛まれなかった場所。
ユエルは目を閉じなかった。
期待していると思われるのだけは、嫌だった。
もう、自分でも何を期待していたのかわからなかった。
「……あなたの手で絞めれば、全部終わりますよ。旦那様」
アルヴィスの指が、首筋に留まる。
長い沈黙だった。
ほんの少し力を込めれば、それで終わる。
この曖昧な関係も。
憎しみの名を借りた欲も。
妻でありながら妻ではない日々も。
けれど、アルヴィスは何もしなかった。
噛みも、絞めも、何も。
――やはり。
悲しみより先に、ひどく静かな納得があった。
胸のどこかで、ずっと握りしめていたものが、音もなくほどけていく。
愛があるなんて思ったことはない。
ただ、いつか。愛されるほどでなくとも、穏やかに過ごせる日が来るかもしれない。
せめて互いを人間として、尊敬し合える程度にはなれるかもしれない。
そんなことを、まだどこかで思っていた。
もう、その必要はなかった。
ユエルはゆっくりと身体を起こした。
乱れた衣服を直す指先は少し震えていたが、隠そうとは思わない。
隠す相手なら、もう目の前にはいなかった。
少なくとも、ユエルの中では。
アルヴィスは何も言わない。
ユエルも何も言わなかった。
床に落ちていた離縁状の片方を拾う。
署名のあたりで裂けていて、もう役には立たない。それでも捨てる気にはなれなかった。
破られたことも。
抱かれたことも。
最後まで番にされなかったことも。
すべて今日、ここにあった証拠だった。
扉へ向かう足は、少しだけ覚束なかった。
それでも振り返らない。
「ユエル」
背後から、低い声が落ちた。足が止まりかける。
初めてだった。
結婚して一年。
夫が初めて、自分の名を呼んだ。
けれど、それに何の意味があるというのか。
遅すぎる。
はじめから――いや、きっとこれから先も、何も変わらない。
ユエルは扉に手をかけたまま、静かに息を吐いた。
泣きたくはなかった。
怒鳴りたくもない。
責める言葉なら、もう十分に使った。
これ以上、この部屋へ置いていけるものは何もなかった。
だから振り返らず、扉を開けた。
廊下の空気は、執務室より少し冷たかった。
ユエルは破れた離縁状を握りしめたまま、静かに歩き出した。
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