君の選んだ鳥籠
こたん2号
第一章
最後の音を伸ばしきる前に、エルネは歌うのをやめた。
声が掠れたわけでも、息が足りなくなったわけでもない。
譜面にはあと二小節、緩やかに下降する旋律が残されていて、それを最後まで辿るだけの余力も喉には十分あった。それでも続きを口にする気にはなれず、吐き出しかけた息をそのまま鼻から逃がすと、静まり返った部屋の中で、伴奏の余韻だけが所在なさげに薄れていった。
エルネは額へ落ちた銀髪を鬱陶しげに払い、譜面台に載せた紙を眺めた。伏せた青い瞳の先には、昨日一日を使って書き上げた音符が整然と並んでいる。
悪くはない。少なくとも、調律を学んだ者に見せて失笑されるような出来ではなかったし、旋律も和声も破綻していない。
歌唱部は自分の声域にきちんと収まり、息継ぎの位置にも無理がなく、セイレーンである自分が歌うことを前提として細かな調整までしてある。
実際、つい先ほどまで身体は何ひとつ拒絶を示さなかった。眩暈も吐き気もなく、耳の奥で音が濁ることもない。
──だから余計に、腹が立ったのだ。
エルネは譜面台から紙を取り上げ、しばらく指先で弄んだあと、二つに折った。
まだ足りない気がして、もう一度折る。厚くなった紙に爪を立てると、昨日慎重に書き込んだ音符が折り目の中へ消えた。
「……つまらない」
誰に聞かせるでもなく呟いてから、それを屑籠へ放る。
狙いが悪く、紙は縁に当たって床へ落ちた。それにも苛立ったが、拾う気にはなれなかった。
声が出ないのなら、まだ話は簡単だったのかもしれない。
喉を痛めたのなら医師に診せればいい。
能力の酷使が原因なら休養を取ればいいし、セイレーン特有の障害なら専門家を頼ることもできる。原因が身体にあるのなら、治るにせよ治らないにせよ、少なくとも向き合う相手の姿は見える。
エルネの喉は健康で、声も出る。歌おうと思えば、今のように一曲をほとんど最後まで歌えるのに、最後の数小節を前に気持ちだけが続かなくなる。
そのことを最初に医師へ告げたとき、彼は眼鏡の位置を直しながら、ひどく答えに困った顔をした。
声帯にも呼吸器にも異常はなく、能力値にも目立った低下はない。歌おうと思えば歌えるのだから、身体の機能そのものに問題があるわけでもない。いくつか当たり障りのない質問を重ねた末、医師が出した結論は、エルネが診察を受ける前からわかっていたことだった。
『精神的なものでしょう。しばらくは無理になさらずに』
結局、それだけだった。
どうして歌いたくなくなったのかはわかっている。では、どうすればもう一度歌いたくなるのか。その答えは医師にも、エルネ自身にもわからない。
窓辺へ歩き、少しだけ窓を開ける。
秋の冷えた空気が隙間から入り込み、歌ったあとの熱を残す喉を撫でていった。心地よさに目を細めながら庭を見下ろせば、植木職人が薔薇の手入れをしている。
いつもと同じヴェリエ家の午後。
庭の向こうでは使用人が洗った布を運び、廊下からは誰かの足音が遠く聞こえてくる。
何も変わっていない。
変わったのはエルネだけだった。
以前なら、この時間には歌っていた。
新しい譜面を渡されれば、食事を忘れて読み耽ったこともある。頭の中だけでは足りず、声にして確かめたくなる。どんな音を要求されても、自分の声で形にする瞬間が好きだったし、うまく歌えなければ悔しくて眠れなかった。
その中心には、いつもローレンスの曲があった。
思い出した途端、舌の付け根にひどく苦いものが滲んだ気がして、エルネは窓を閉じた。
考えるな、と自分に命じることには、もう飽きている。
忘れろと言われたことは一度もない。ヴェリエ家の者たちは、エルネがローレンスの名を出しても顔色を窺ったりせず、反対に腫れ物のように扱うこともしなかった。
その優しさがありがたく、同時にどうしようもなく居心地が悪い。
いっそ「いつまで引きずっている」と叱られたなら、腹を立てる相手ができたのに。
ローレンス・オルフェン。
四つ年上の調律家で、長くエルネのために曲を書き、恋人でもあった男。
彼の曲はよくエルネに馴染んだ。
歌い始めれば、自分の身体がどこからどこまで声でできているのかわからなくなるほど自然に旋律が流れ、息を吸う場所さえ最初から知っていたような感覚があった。調律家とセイレーンの相性というものを、エルネはローレンスと出会って初めて身体で理解したのだ。
だから、その男が別のセイレーンを選んだと知ったときも、最初は意味がわからなかった。
ローレンスの気持ちが変わったことより先に、
――では、僕は何を歌えばいい?
そう考えた。
我ながらひどいと思う。
恋人に別れを告げられて最初に心配したのが歌なのだから。
けれどセイレーンにとって、歌と愛情を綺麗に切り分けることなど、最初から無理な話だった。
好きな調律家の曲を歌う。
歌うほど好きになる。
好きだから、もっと歌いたくなる。
その循環のどこからが恋で、どこまでがセイレーンとしての固執なのかなど、エルネ自身にもわからない。ローレンスの指が譜面の上を滑るのを見ることも、その指に触れられることも、結局は同じ男を求める行為だった。
それを、まとめて──失った。
机の端には、何人もの調律家から送られてきた譜面が積まれている。
ヴェリエ家が無理に集めたものではない。エルネの事情を聞いた調律家たちが、善意で寄越してくれた曲だった。
一番上の譜面を開く。
丁寧な曲だった。
エルネの過去の歌唱記録を調べたのだろう。得意な中音域を中心に据え、上下への移動にも無理がなく、声を美しく響かせるための工夫が随所にある。
以前なら喜んで歌ったかもしれない。
試してみたことはある。けれど数小節も歌わないうちに耳の奥が重くなる。
この感覚には名前がある。音酔い――以前、能力の高いセイレーンほど重症化すると聞かされたときは、他人事だと思っていた。
別の曲では、吐き気を覚えたところでやめた。
それでも歌えるものはあったが、今度は先ほどの自作曲と同じだった。
歌えるだけ。それだけ。
「エルネ?」
扉の向こうから声がした。
「入っても?」
「どうぞ」
扉が開き、ヴェリエ伯爵夫人が顔を覗かせた。
エルネをこの家へ迎えた頃から変わらない、少し垂れた目元。年齢を重ねて銀の混じった淡い栗色の髪を今日は簡単に結い上げており、手には茶器の載った盆を持っている。
「……侍女は?」
「下がらせたわ。今日は私が持っていきたかったの」
「いやいや……伯爵夫人が給仕を始めたら、みんな困るんじゃない?」
「あら。私の家なんだから、私が何をしてもいいでしょう?」
「えぇ……横暴だな」
「女主人ですもの」
真顔で言われ、エルネは少し笑った。
夫人も満足そうに目を細め、卓上へ茶器を置く。その途中で床に落ちていた折り畳まれた譜面に気づいたらしく、拾い上げはしたものの、広げようとはしなかった。
「これ、捨てるもの?」
「うん」
「じゃあ捨てておくわね」
それだけ言って屑籠へ入れる。
何を書いたのかも、なぜ捨てるのかも聞かない。
「今日は歌ったのね」
「聞こえた?」
「ええ、少しだけ」
「どうだった」
「私は好きよ。音程がよかったわ優雅で」
「そういう感想はいらない」
「あら。母親に音楽的批評を求めるほうが悪いでしょう」
母親。
夫人──母はそういう言葉を、エルネが嫌がらないと知ってから自然に使うようになった。
血は繋がっていない。
それでもエルネにとって、その人は母だった。
「医師から、しばらく歌うなって言われてるんじゃなかったの?」
「歌うな、とは言われてない。無理はするなって」
「同じようなものじゃない」
「違うよ……言葉からして全然違うだろ」
エルネは母の言葉に呆れながら茶を一口飲んだ。
香りが鼻へ抜ける。少し熱すぎるくらいで、歌ったあとの喉にはむしろ気持ちがよかった。
「……歌わないでいたら、そのうち本当に歌えなくなる気がするんだよ」
母の手が一瞬止まり、それから何事もなかったように自分のカップへ茶を注いだ。
「そんなこと気にしてるの?」
「……はぁ? 僕はセイレーンだよ、母上様」
「だから、なぁに?」
言い返そうとして、やめた。
母が何を言いたいのかはわかっている。
「歌えなくたってここにいればいいでしょう」
「簡単に言うな」
「簡単なことだもの。エルネの部屋はなくならないし、食事も出るし、あなたが暇そうなら父上が仕事を押しつけるでしょうね。あの人、最近帳簿を見るのを嫌がってるから」
「ねえ、僕はセイレーンだよ……そりゃ、帳簿も見れるけどさ……」
「知ってるわ」
「歌えなくなったセイレーンを、セイレーンとは呼ばない」
「それはセイレーンの話でしょう」
母は砂糖を一つ落とし、銀匙でゆっくり混ぜた。
「私はエルネの話をしてるの」
カップの中で匙が磁器に触れ、澄んだ音を一度だけ立てる。
エルネは返事をしなかった。
ありがたい。
この家に拾われたことも、この人たちが自分を家族だと思ってくれていることも、疑ったことはない。
けれど、だから大丈夫だとは思えなかった。
歌を失った自分でも家族は愛してくれる。
そんなことは知っている。
自分が、歌を失った自分を愛せないのだ。
そこだけは、誰にも代わってもらえない。
母が部屋を出たあとも、エルネはしばらく椅子から動かなかった。
卓上には二人分の茶器が残され、母のカップには底が見える程度の紅茶が残っている。いつもなら使用人がすぐに下げに来るところを、今日は気を利かせているのか誰も来ない。
先ほどまで人がいた場所だけが妙に整って見えて、エルネは自分のカップに残った茶を飲み干すと、冷めかけた液体の渋みを舌の奥で転がした。
幼い頃にこの家へ迎えられてから、ヴェリエ夫妻がエルネに何かを求めたことはほとんどなかった。もちろん教育は受けさせられたし、伯爵家の一員として最低限の礼儀作法も叩き込まれたが、歌に関してだけは、上達を喜びこそすれ、それを家への恩返しとして要求された記憶がない。
おかしなもので、その芸術性を買って養子に迎えたはずなのに、いざ家族にしてしまえば、才能が失われたところでエルネまで手放すという発想にはならないらしい。
才能の芽には目ざといくせに、それが枯れたあとまでも構うことなく抱えておく。
どうにもアンバランスな、優しい家なのだ。この家は。
だからこそ、歌わなくてもいいと言われるたび、どうにも落ち着かなかった。
彼らはそれでいいのだろう。
けれど、自分は何になる。
窓硝子に映った自分の顔を見ながら口を開き、声にならない程度の息を吐いてみる。舌を置く位置も、喉を開く感覚も変わっていない。音を乗せようと思えばいつでも乗せられる身体がそこにあり、それなのに歌いたいものだけがないという状態は、腹が減っているのに食卓に並ぶすべてが砂に見えるのと似ていた。
いっそ何も食べられない身体なら諦めもつくのに、空腹だけは律儀に残っている。
「……最悪」
今度の独り言には、少しだけ笑いが混じった。
◇◇◇
翌朝、エルネは久しぶりに王都へ出た。
別に心境の変化があったわけではない。ヴェリエ伯爵──父から、懇意にしている学院教授へ返してほしい本があると頼まれただけで、家人に任せれば済む用事をわざわざ引き受けたのは、昨日の自作曲をもう一度試す気になれなかったからだった。
馬車の中で本を開くこともなく、膝に載せたまま窓の外を眺める。
王都へ近づくにつれて通りを行く人の数が増え、やがて馬車の速度も落ちた。露店の呼び声や車輪の軋む音に混じって、どこかの店から弦楽器の音が流れてくる。聞き覚えのない曲だったので身構えたものの、歌わされるわけでもない音楽なら身体は何ともないらしい。もっとも、耳を澄ませたいとも思わず、エルネは窓から視線を外した。
学院へ着いたのは四半刻を少し過ぎた頃だった。
受付で名を告げれば、ヴェリエ家から連絡が入っていたらしく、教授の研究室まで案内される。学生の頃に何度か訪れたことのある棟は以前とさほど変わっておらず、磨かれた床には午前中の講義を終えた学生たちの靴音が絶え間なく響いていた。
歌唱科の教室が並ぶ階を避けて遠回りしたことには、自分でも気づいていたが、理由を考えるのはやめておいた。
「おや、エルネが来たのか」
研究室へ入るなり、老教授は本より先にエルネの顔を見た。
「僕が来たら困るの? 先生」
「いや。伯爵が遣いを寄越すと聞いていたから、てっきり若い使用人でも来るものかと」
「まぁ……暇だったから」
「なるほど」
それ以上は聞かれなかった。
この男もヴェリエ家と長い付き合いがある。エルネとローレンスのことを知らないはずがなく、だからといって気遣わしげな顔をされるのも面倒だったので、普段と変わらない扱いはありがたかった。
借りていた本を渡すと、教授は表紙を確認して机の端へ置いた。その机が以前よりひどい有様になっていることに気づき、エルネは眉を寄せる。
「また増えてるね」
「何が」
「紙」
「そりゃ、研究室だからな」
「研究と片づけができないことは別では?」
「おお、煩い。君も相変わらずだな」
「何が」
「遠慮がない。少しくらい敬いたまえ」
笑いながら教授が椅子の背へ上着を掛ける。机には書籍と論文、学生が提出したらしい課題、それから束ねられていない楽譜まで雑然と積まれており、端のほうではインク瓶が危険な角度で紙の山に寄りかかっている。
見ているだけで落ち着かず、エルネは倒れかけていた譜面の束を揃えた。
「おいおい、触るなよ。順番がわからなくなる」
「この状態でわかってるなら才能だよ」
「わかっているとも」
「じゃあこれは?」
適当に一枚抜いて見せると、教授は数秒黙った。
「……学生の課題だ」
「右上に出版工房の印があるけど」
「……ああ、煩い。細かいことを言うな」
「わかってないじゃないか」
呆れて紙を戻そうとしたとき、その下から一枚の譜面が滑り落ちた。
反射的に手を伸ばす。
床へ届く寸前で掴んだ紙は、先ほどのものより厚く、何度か人の手を渡ったのか縁がわずかに柔らかくなっていた。
「それも戻しておいてくれ」
「はいはい」
表を上にして束へ戻そうとして、手が止まる。
最初に目についたのは、歌唱部だった。
そこだけ見れば特別奇妙というほどでもない。
出だしは中音域で、セイレーンなら大半が無理なく扱える高さから始まっている。ところが四小節目で急に音が上がり、その直後には予想していた着地点を外して下へ落ちる。旋律の癖だと思って追えば、次は伴奏側が歌唱部から離れ、通常なら互いを支えるはずの二つの音が、まるで別々の方向を向いたまま進んでいた。
エルネは紙を束へ戻さず、そのまま次の段を読む。
──ひどい。
率直にそう思った。
歌い手のことを考えていない。
息の流れを無視しているわけではないのに、息を整えた直後に嫌がらせのような跳躍があり、そこで声を保ったとしても、続く旋律はさらに別の響きを要求してくる。音域だけを見ても、前半と後半では別人に歌わせるつもりなのかと疑いたくなるほど離れていた。
これを書いた人間はセイレーンが嫌いなのか。
そう思ってから、違う、と気づく。
嫌いなら、もっと簡単に音を壊せる。
喉の仕組みも、セイレーンの能力も、これは知っている人間の書き方だった。知らずに無茶をさせているのではない。どこまでなら声を保てるのか理解したうえで、その境目にわざわざ音を置いている。
これは、そう──悪趣味だ。
「先生」
「なんだ」
「これ、学生?」
「どれだ」
譜面を見せると、教授は「ああ」とだけ言い、すぐ机の整理へ視線を戻した。
その反応が気に入らない。
「誰の? ひっどいんだけど」
「下に書いてあるだろう」
「まだそこまで見てない」
「なら最後まで読め。私は今、君に散らかされた机を元に戻すので忙しい」
「僕のせいにしないでくれます? 触ってない」
言い返しながらも、エルネは譜面へ視線を戻した。
二段目。
三段目。
読むほど、最初に抱いた印象が崩れていく。
無茶苦茶なのは変わらない。むしろ全体を見れば見るほど、まともな調律家なら避ける箇所ばかりが増えていく。それでも、単なる思いつきで音を並べたのではないことだけは明らかだった。
この音でなければならない。
そんな頑固さが、紙の上から伝わってくる。
半音下げれば歌いやすい箇所がある。
けれど下げたところを頭の中で鳴らしてみると、急に凡庸になった。
では前の和音を変えるか。
それも違う。
歌唱部を優先して伴奏を整理すれば、確かに美しくはなる。美しくなる代わりに、曲そのものが何か別のものへ変わってしまう。
「……何なんだ、これ」
教授から返事はない。もっとも、エルネも答えを求めてもいなかった。
エルネは椅子を引き、いつの間にか腰を下ろしていた。
指先で小節を辿りながら、頭の中で音を重ねる。
やはり妙だ。
特に中盤。
伴奏だけを追えば、次に来る音を待ったまま進んでいるように聞こえる。ところが歌唱部に書かれている音をそのまま当てても、そこへ綺麗には収まらない。解決するはずの場所で解決せず、次の小節へ持ち越され、それがまた次へ続いていく。
なのに破綻はしていない。
何かが足りない。なのに足りないまま成立している。
その感覚が気持ち悪くて、もう一度最初へ戻った。
歌唱部を見る。
今度は音符としてではなく、自分の喉に置き換えて読む。
最初の音なら出る。
次も問題ない。
ここで息を入れて、上へ。
出る。
下がる。
これも。
その先――。
喉の奥が、かすかに動いた。
エルネは反射的に口元を押さえた。
歌ったわけではない。
音すら出していない。
それでも身体が、譜面の続きを先に試そうとした。
ここ数か月、一度もなかったことだった。
他人の譜面を開けば耳の奥が重くなり、自分で書けば何も感じない。そのどちらでもなく、まだ一音も声にしていない曲に対して、喉が勝手に形を作ろうとしている。
気味が悪い。
紙を置こうとした。けど、置けなかった。
あと一段だけ、と目を走らせ、その一段を読み終えれば次が気になった。最後まで行ったところで、今度は冒頭の意味が変わって見え、結局また最初へ戻る。
「気に入ったのか」
不意に教授から言われ、エルネは顔を上げた。
「どこを見たらそう思うんだよ」
「さっきから三度読んでいる」
「意味がわからないから読んでるだけ」
反論しようとして、やめた。
その通りだった。普段のエルネなら、合わないと思った譜面を何度も読み返したりはしない。どこが悪いかを確かめれば、それで終わりだ。
けれど、この曲は違った。どうしてなのかは、エルネにもわからなかった。
教授はようやく机を片づけることを諦めたらしく、椅子へ腰を下ろすと、エルネの手元を顎で示した。
「歌うんじゃないぞ」
「何で」
「今の君には勧めない」
エルネは眉を寄せた。先ほどまでとは違う声音だった。
「……音酔い?」
「その可能性は大いにある」
「誰か起こしたの」
「昔な。ひどいものではなかったが」
そこで教授は話を切り、書類の束を引き寄せた。止めたいならもっと言えばいいのに、それ以上口を出す気はないらしい。
エルネは改めて譜面を見る。
音酔い。
そう聞けば、普通なら興味を失うところだった。
今の自分はすでに他人の曲で軽い症状を起こしている。わざわざ危険だとわかっているものへ手を出す理由などない。
それなのに、譜面を閉じようとした指が、最後の余白で止まった。
そこに署名があった。
流麗というには癖があり、几帳面というには伸びやかな筆跡。知らない名前なら、そのまま読み流していただろう。
知らない名前ではなかった。
エルネは一度目を離し、見間違いでないことを確かめるようにもう一度読む。
アーネスト・オルフェン。
「……は?」
口から出た声に、教授が顔を上げた。
「何だ」
「これ、オルフェン卿の曲?」
「ああ。そう書いてあるだろう。兄の方だな。弟の方ではない」
「それは見ればわかる」
自分で訊いておきながら苛立ち、エルネは署名を睨んだ。
知っている──名前は。
会ったことは、ない。
少なくとも正式に言葉を交わした記憶はないが、ローレンスに兄がいることくらい当然知っていた。
アーネスト・オルフェン。
調律家でありながらセイレーンに合わせて曲を書かない変人。理論と指導に関しては一流で、他人には正統な調律を教えるくせに、自作になるとその教えを自分で踏みにじる。
ローレンスが兄について多くを語ることはなかった。
仲が悪いわけではないらしい。ただ、兄弟でありながら音楽に対する考え方が違いすぎるのだと、一度だけ苦笑していた。
そのときのエルネは興味を持たなかった。
ローレンスの曲があれば、それでよかったから。
「よりによって……」
呟いて、もう一度譜面を見る。
作者を知ったところで、音符は何ひとつ変わっていない。
無茶な跳躍。
広すぎる音域。
歌い手への遠慮など欠片もない構成。
腹立たしいほど傲慢な曲。
なのに。
先ほど無意識に形を作った喉の奥には、まだその感覚が残っていた。
エルネは譜面を裏返した。これで見えない。
見えなくなったのに、最初の旋律をもう覚えている。
「先生」
「今度は何だ」
「これ、借りていい?」
教授の手が止まった。
眼鏡越しの視線がエルネへ向けられ、次いで伏せられた譜面へ落ちる。
教授はすぐには答えず、伏せられた譜面とエルネの顔を交互に見た。止める理由を探しているというより、どこまで言えばこちらが素直に聞くのかを測っているような沈黙で、その態度が癇に障り、エルネは譜面の端を指で押さえた。
「歌わないよ」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてある」
「君は昔から、人の顔を読むのが雑だな」
「じゃあ貸して」
教授は鼻から息を吐き、机の引き出しを開けた。何かを探して中を掻き回しながら、「私のものではない」と言う。
「預かっているだけだ」
「本人の?」
「いや。研究資料として学院に寄贈された写譜だよ。原譜はオルフェン家にあるはずだ」
「だったら借りられるだろ」
「手続き上はな」
ようやく見つけたらしい貸出票を机に置き、教授はペンを差し出してきた。エルネが受け取ろうとすると、その指先が紙から離れない。
「エルネ」
「何」
「さっき言ったことは覚えておけ。これは、今の君が意地になって試すような曲じゃない」
今度は冗談を挟まなかった。
エルネもペンを引っ張るのをやめる。
「どの程度だったの」
「何が」
「音酔いを起こしたセイレーン」
教授はわずかに目を細めた。
「私の知ってる限りでは二人。片方は途中で気分を悪くして、それで終わりだ。もう一人はしばらく音を正しく拾えなくなった。半日ほどで戻ったがね」
「能力は?」
「どちらも中程度。君ほど高くはないな」
高い能力を持つセイレーンほど、音酔いを起こしたときの影響が大きくなる。そんなことは幼い頃から何度も教え込まれており、エルネが知らないはずもない。
教授がわざわざ口にしなかったのも、そのためだろう。
「本人は?」
「アーネストか?」
「他に誰がいるんだよ。自分の曲でセイレーンが酔ったんだろ」
「あれは歌わせてはいない」
予想していなかった答えに、エルネは眉を寄せた。
「じゃあ、どうして」
「セイレーンが譜面を見て勝手に歌ったんだ」
「……二人とも?」
「そう聞いている」
譜面へ視線が落ちる。
妙な話だった。
歌い手への配慮がないどころか、歌わせる気があるのかさえ疑わしい曲を、二人のセイレーンが自分から歌った。その結果として音酔いを起こしたのなら、作者を責めるのも筋が違う。
そして今、自分もそれを借りようとしている。
「人気者なんだな、オルフェン卿は」
「本人に言えば喜ぶんじゃないか」
「言わないけど」
「面倒な子だな、君は」
教授がようやくペンを放した。
貸出票へ名を書きながら、エルネはもう一度、伏せた譜面を見た。紙一枚隔てた向こうに音符が並んでいるだけなのに、見えていない旋律を頭の中が勝手に補い始める。先ほど読んだ中盤まで辿ったところで意識して止め、署名欄へ日付を書き込んだ。
「返却は二週間後」
「そんなにいらない」
「なら早く返せ」
「そうする」
言い切った声が、自分でも妙に早く聞こえた。
教授は何も言わなかった。
◇◇◇
学院を出たあと、エルネはすぐには馬車へ戻らなかった。
昼を過ぎた王都は朝より人通りが増えており、学院前の広い通りには学生や教師、楽器を抱えた演奏家らしい一団まで混じっている。普段なら人混みを嫌ってさっさと帰るところを、今日は紙袋に入れた譜面が腕の下でやけに存在を主張していて、狭い馬車の中でそれと二人きりになる気分になれなかった。
近くの店で昼食でも取ろうかと思ったものの、二軒ほど通り過ぎたところで、自分が看板ではなく腕に抱えた紙袋ばかり見ていることに気づいた。
「……馬鹿みたいだ」
研究のために借りたのだと考えてみても、我ながら言い訳にしか聞こえない。
エルネは紙袋を抱え直すと、結局、食事も取らず馬車へ戻った。
御者に行き先を告げると扉が閉まり、車輪が動き出した。
外の喧騒は厚い壁を一枚挟んだように遠のいていく。
膝の上には譜面。
見ない。
そう決めて窓の外へ顔を向けたものの、長くはもたなかった。
紙袋から譜面を取り出す。
馬車の揺れで細かな音符がわずかに震え、学院で読んだときより追いにくい。それでも一段目を読み始めれば、視線は勝手に先へ進んだ。
やはりおかしい。
読み返しても評価は変わらない。
四小節目の上行。そこから落ちる音。
伴奏との噛み合わなさ。
その後に置かれた、必要以上に長い休符。
必要以上――と考えたところで、エルネの指が止まった。
違う。
この休符は長すぎるのではない。ここで何かを待っている。
──何を?
もう一度、その前から読む。
歌唱部を頭の中で鳴らし、伴奏を重ねる。やはり足りない。けれど学院で感じたような、書き損じや未完成ゆえの不足とは少し違う。
音は書かれている。必要なものは紙の上にある。
なのに、鳴らない。
馬車が石畳の継ぎ目を踏み、紙が指先で揺れた。
エルネは無意識に息を吸った。
声は出さない。
ただ、喉の奥で最初の音の形を作る。
舌を置き、口腔の広さを調整し、息だけを流す。そこから次の音へ移るつもりで身体を整えた瞬間、譜面を目で読んでいたときには気づかなかった感覚があった。
狭い。
最初の音ではない。自分のほうが。
エルネは息を止めた。
「……何だ、それ」
誰もいない馬車の中で、自分の身体へ問いかける。
意味がわからない。
自分の声域は把握している。幼い頃から何度も測定し、成長に合わせて変化するたび記録してきた。調律家としての教育も受けているから、感覚だけではなく理論的にも理解している。
それなのに、この曲を身体へ置こうとすると、いつも使っている声の範囲が妙に窮屈に感じられた。
譜面が広すぎるのではない。
自分が狭い。
そんな馬鹿な話があるか。エルネほどの音域を持つセイレーンは、そう多くない。それは自惚れではなく、これまで何度となく測定され、他人からも認められてきた事実だった。
それなのに、この譜面を前にすると、その広ささえ足りないように感じる。
エルネは紙を閉じた。今度こそ、屋敷へ着くまで開かなかった。
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